幻想と虚構の狭間で

生きている間にこれほどのことが起きるのだなぁと思った1年。
 
五感を通じて感じる世界というものは、五感がフィジカル的なものであるためいくらでも変わりようがあり絶対的な存在ではない。触れる先の世界とは個人によって有り様が異なるから、人の心がどのようにあるかなんてのは間接的な証拠で掴めても本質的にはわかるはずはない。
それでも人と人とが共に生活していくために社会が必要だ。多少個々の見解が異なろうが最大公約数として残る部分を共通項として社会が形成され、世界が回ってゆく。だが平時でなくなった途端に、その共通項という名の「幻想と虚構のもとに築かれたもの」は音を立てて崩れることになる。
人と人とは、元来孤独で分断されしものなのだ。
 
  
空にはいつものように雲が流れ雨が降り、草木は育ち花が咲く。
社会という名の幻想と虚構を剥がされた人々だけが戸惑っている。しかしそれは人々が招き、人々が広めたこと。ついでに言うと人々の往生際が悪いので終わらない。
それは清々しいまでの人類の自滅による敗北。勝ちなどしていない。身分も立場も関係ない。そこに奇跡はなく、心が折れようが病はそんなものを忖度しない。敗北から始まっていることを認めなくてはならない。
  
幻想も虚構もない中で、人は人の本性をまざまざと見せられることになる。これほど顕著に長期間、目にする機会はそうそうあるものではないだろう。他人がどのような言動を取るかをここまで観察していることもなかなかないが、病に感情などないのに、人々の大半が幻想と虚構と感情に振り回されっぱなしのまま下らない話をしているなあとは思う。
いつかは敗北を脱する日が来るのかも知れないが、しかしこの長期間の傷跡がなかったように戻ることは決して無い。望んでいた展開では無いにせよ、ある意味では貴重な経験をしている期間とは言える。そして今この期間に感じていることが、今後の生き方の指針となる。
 
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敗北を脱する第一歩は個人の努力によってではなく、対抗出来る能力を医療的に得ることでようやく始まる。個人レベルの徹底は完全なる無駄でこそないものの、どれだけ徹底しようが「やらないより遥かにマシ」の域を超えるものでもない。
第一歩もまだなわけで、私生活においては緊急事態宣言以前の2月中旬から現在に至るまで、個人でやるべき指標を緊急事態宣言並の厳戒態勢から緩めていない。というより緩めて良い理由がないことも、年を余裕で跨ぐ話になることも春先にはわかりきっていたことだ。淡々と指標を守るだけである。
  
幸いにも20代のネトゲ生活が功を奏しており、家の中に居続けることは然程苦ではない。
ネトゲ三昧生活の頃、休みという休みは全て自宅にいて、あらゆる音は切って過ごしていた。部屋にはキーボードを叩く音だけがただ響く。それで慣れているから周りで全然物音しなかろうが家に居っぱなしだろうが、それがストレスになることはない。
もちろん遠出などを通じて普段体験出来ないことの知見を重ねた方が人生経験は豊かになるから30代になってからはネトゲ一辺倒の引き篭もりはあまりしなくなったが、あの頃の経験がここで活きるとは思わなかったなあというのが本音だ。

 
今日も、そして明日も、空には日が昇り雲が流れる。
そんな雄大な星と宇宙の営みを前に、なんと愚かしいことか。今年ほど節目感が薄い年もないが、そんな節目というものも人の作りし幻想と虚構に過ぎない。
だが愚かしいなりにも、社会が幻想と虚構の最大公約数だとわかっていても、その社会に属する以上立ち回りと折り合いをつけなければいけないのだ。
特に結論は出ていないが、来年もそれなりにやっていこうと思う。