桜に見出すその価値は。

もし桜の木にだけ時の流れが異常に遅くなり、その淡い色合いを年間通じて見ることが出来るようになったなら。人は桜が花開く様を喜び続けるだろうか。
一般的に見かける桜はソメイヨシノであることから、桜は一斉に花開き一斉に散ってゆく、というものになっている。そのあまりにも短い期間と横並びの様子に想いを馳せることは、作られた価値ではないだろうか。

季節を忘れるほどMMORPGにはまり倒していた頃は、桜をわざわざ見に行くことをしなかった。そのはまり倒していた時期を過ぎたとき、桜に対する感情に疑問を抱くようになった気がする。期間が短いという希少性を、ありがたがって価値を見出しているだけなのだ、と。
そんなことを思い出す。

 


人は幻想の中で生きている。
人には想像という、何もないところから価値を生み出すことが出来る。そして創造という行為をもって現実世界への干渉を繰り返し、積み上げてきた。経済でさえも「人と人との間に共通するもの」を定義することにより成り立っており、ゆりかごから墓場まで常に幻想の只中に。

だから価値は操作出来る。例えば桜のように。
また、誤った価値観で人を動かすことも出来る。
今そこにある価値とは、自分にとってどれだけ必要なものか。


そこまで価値の在り方を疑った上で、価値を生み出す行為とは楽しそうだなあと思う。だって、意図的に人を操作しているのと同じことだから。
新たな価値を想像し提供する立場にいる人らの中で、このような性悪なタイプと純粋に人を喜ばせたいと思う人、どちらが多いのだろうか。
社会的に成功するのは、前者だよな。