今ここより再び始まる、新しき日々

繰り返される日常の中である日、非日常に出会う。驚きに満ち溢れた非日常的な体験から日常へ戻ると、その前と後では同じようで違う新しい毎日が始まる。物語の魅力とはそのような点にあるのだと思う。
自分の物語へ魅力を感じたルーツは何だっただろうか。

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■劇場版マクロスΔ 絶対LIVE!!!!!!
https://macross.jp/special/deltamovie2/

「なりたい自分にプリズムジャンプ!」じゃねーかとかニヤニヤしている場合ではなかった。
元々の設定をきちんと使い倒して来たなと思うと同時に、それが意味するは「ここが大きな節目である」ことも理解した。

ウィンダミア人は30年しか生きることが出来ない。それはワルキューレを取り巻く周囲では描写されてきたが、同じ運命を併せ持つフレイアに対しては仄めかす程度でクリティカルな部分まで切り込むことはしてこなかった。短い一生だからこそ強く輝いて生きるのだという設定は、シリーズにおいてフレイアのみが持つ本作最大のエッジである。
しかしここまで展開に含みをもたせるような締め方を行なってきたことで、「もしかしてフレイアはいつまでもいてくれるのではないのか」…そのように錯覚してしまう雰囲気が少なからずあったのではないだろうか。だがこのような設定を組んだ以上、必ずどこかでその決着をつけなければいけない。それを「絶対LIVE!!!!!!」はしっかりと行っている。


フレイアが風に召される。
三者的には、「人が命を散らすことを悲しまないなんて無理だろ」という話もあるだろう。だがフレイアにとって「やりたいことをやって生きること」「やらずに緩やかな死を迎えること」そのどちらが幸せであったかは、ここまで話をきちんと見ていれば一目瞭然のはずだ。だって歌に夢見て家出して、密航までしちゃう行動力の持ち主だったのだから。
思えば歴代マクロスシリーズも、メインを張った人物がその後いなくなることは当たり前のように行なわれて来たなと、風に召されるフレイアを見届けた後に思い出した。初代のミンメイ・輝・未沙はFLASHBACK 2012でメガロード1に乗って旅立つまでは描かれたが、その後音信不通ということになっている。マクロスプラスでガルドは対ゴースト戦で命を散らしているし、シャロンアップルはイサムに破壊された。マクロスFではサヨナラノツバサ終盤でアルトが遠くに行ってしまい、シェリルは命を燃やし過ぎて生命維持装置から未だ目覚めることが出来ていない。

シリーズ主要登場人物と同格のラインまでフレイアが "きちんと" 扱われたことは、それ自体が大変感慨深い。何故なら劇場版2作とも制作は全く既定路線ではなく、 "あの" ワルキューレ2ndライブで世界線が変動しなければフレイアの扱いは中途半端なまま次代へバトンタッチしていただろうからだ。
2ndライブのあの日のことを忘れることはないだろう。これで終わりかも知れない。しかしワルキューレの圧倒的な実力がこんな所で終わっていいはずがない。だから熱意を燃やし尽くすは今ここしかない。翌日の体調などという些細なことに構っている場合ではない。単純に期待値が高いだけなら幾つも経験はしたが、あれほど色々な感情ないまぜで挑んだライブは他にない。
「道半ばで終わるのは嫌だ」…それこそが2ndライブで抱えていた最も大きい気持ちだった。未来が繋がったからこそ辿り着けた場所で、きちんと運命に向き合ってひとつの区切りを迎えることが出来たのは、素直に良かったなあと思う。
ただこの辺りはあくまで個人の感想で、マクロスΔワルキューレにどこからどの程度思い入れがあるかで変わってくるだろう。


本作ではフレイアだけでなくワルキューレ以外の主要人物にも多めにスポットが当たっており、その中でも特にミラージュの扱いが大躍進した点も見逃せない。ミラージュは三角関係から脱落して以降の身の振りの描写がどうにも弱かったのだ。そこにマクシミリアン・ジーナスがやってきて、これがてきめんに効いている。
孫娘に対し「エースの素質はない」と言い切るマックス。エリート家系の生まれでありながら自分は劣っているのではないかと焦るミラージュ。悩んだ彼女はアラドの采配もあって、エースではなくリーダーとして才覚を表すようになり、自分の飛び方を知るようになる。
ああ、ミラージュがまるで落第生みたいなまま終わらなくて本当に良かった。ミラージュは格好いいのが一番いい。これも元々備えていた設定をきちんと使い倒してきた一例だ。

しかし本作におけるマックスの出番は相当なもので、「愛・おぼえていますか」より余程喋っているのには笑ってしまう。シリアスな展開が続くなかの清涼剤として盛られたサービス精神の一環とは思うが、ハヤテとマックスが背中合わせになるシーンなどはその極地と言っていいだろう。「40周年の今それやんの!?」と突っ込まずにはいられない。
そもそもマックスの名前は第一次世界大戦中にドイツが撃墜王へ勲章を授けたところから来ている。その受賞者にマックス・インメルマンという人物がいて、マクシミリアン・ジーナス通称マックスの名前はここから来ているのだが…背中合わせにハヤテ(・インメルマン)とマックスが並んでしまったら、元ネタそのまんまである。
マックスのみならず本作では過去作との繋がりやオマージュがふんだんに盛り込まれており、そちらの点でも見どころは多い。シャロンアップル型量子AIの後継が存在することを明言した点については、今後のマクロスシリーズに大きな影響を与える可能性があるだろう。

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楽曲面にも触れておきたい。
本作の敵対勢力ヤミキューレは、量子AIがワルキューレの歌を解析・ディープラーニングした結果誕生した存在ということで、ワルキューレのもうひとつの側面とも言えるだろうし歌っている中の人も丸っきり同じである。
元々ワルキューレの歌曲群には「どの歌がヴァールシンドロームに有効的に働くか」を探る設定があり、バラエティに富んでいた。そこをヤミキューレという捻り技で更に幅を広げて来たことで、歌曲の幅広さについてはマクロスシリーズ随一を誇るようになったと言っていいだろう。
素の状態なら「綺麗な花には毒がある」なんてものは出てこない。

このシリーズ随一の幅広さがシリーズに与える影響も大きい。
近年のマクロスシリーズにおいて、マクロスFの存在が非常に大きいことは今更語るまでもない。ただ、マクロスF菅野よう子という1人の天才によるもので、天才がどれだけの曲を作っても菅野ワールドの域を出ることはなかったのもまた事実だ。それに対しマクロスΔは作詞作曲を歌曲毎に入れ替える制作体制を構築している。この前作Fとは真逆を行く方向性が一定の成功を収めたことで、マクロスシリーズ全体での歌曲の厚さがより一層増すこととなった。
これは強い。シェリル・ランカ・ワルキューレを出すだけで極めてハイレベルな布陣になるし、実際にこの面子でコラボアルバムが制作されることも決定している。マクロスシリーズは不定期ではあるがクロスオーバー企画が立ち上がるため、今後も両者がタッグを組んでの展開は普通にありえるだろう。
マクロスの大きな魅力のひとつに歌がある。先輩達の顔に泥を塗ることなく、それをより昇華してみせたこと。それはワルキューレが残した大きな功績のひとつだ。

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ワルキューレは再び4人に戻る。でもワルキューレは5人でワルキューレ
美雲は確かに涙した。その事実が消えることはなく、これから先ワルキューレが歩むは彼女を知る前とは同じようで違う日常。
そう、物語はひとつの区切りを迎えた。

区切りを迎えたとしても、マクロスシリーズはこの先も続く。
マクロスシリーズに属している以上またどこかで出会える可能性があるというのは幸せなことだ。本編でシェリルが起きなくても新曲や新規映像が制作されることもある。そして本作最終盤における「あれ」の存在。これもひとつの種であろう。その種がいつか花開く日を願って、これからもワルキューレとともにありたい。
マクロスシリーズは40年目の船旅へ。そのような節目にこのような作品、ありがとうございました。

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