前進をもたらす一筋の光


普段カクヨムなど自主投稿小説の類はあまり読まないが、籘真先生がカクヨムに作品を投稿しており、NOVEL 0の「大人が読みたいエンタメ小説コンテスト」にも応募ということで読みに行くなどしている。


好きな作家さんを挙げなさいと言われれば、即座に何人かは答えることが出来る。その中の1人に籘真先生がいる。
作家さん毎に好きな理由は違うけれど、籘真先生の場合は世界観や物語進行の根幹を成す部分で局所的に響く何かが毎回必ずある。物語の舞台が変わっても、登場人物が違えども、それを読んでいるウチ自身の(考え事などの)環境が変われどもだ。物語の魅力はそれが媒体を通じて受け手の人生に影響を与える点にあるが、これのヒット率が籘真先生の場合半端ではなく、本当に不思議なくらいよく当たる。それも最も適切なタイミングで。

何か考え込んだり解決の糸口が見つからない時、ウチの場合は考えつつも谷間に落ちないよう防衛手段を取る。しかし防戦一方過ぎて原因を自分で絞り込めていないことが多い。あまり深刻ではないもののそれなりに考えることが今もまたある中で、そこまで深刻ではないから「こっちかな…」くらいまでは持って行けつつ決定打にかけていたところへ、一気に光明を見出せるようなことが「やっぱり今回もあった」のだ。
こういうことがあるから物語に触れることが面白いのであり、特定の作家さんを追いかけ続けるのだと思う。

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特にオチもないが、この物語に触れたことで自分の中で前進があったという備忘録として、ここに刻む。
忘れそうになったら読み返すために。

前後と、それから

6/9に、この話をしてから10日。
「何を言われようが仕方がない」。事前に予想出来うることは対策をした上でのエントリ公開であったにも関わらず「おかえりなさい」やそれに近い言葉をかけて頂けたり、特にそこでコメントはなくとも "新生14にやってきた同じプレイヤー" として普通に接して頂けたりと、こちらの想定は良い方向に外れたように感じた、短いようで長い10日間となった。
いや…表に出していないだけで、本当は言いたいこと山ほどある人も中にはいると思う。けど言いたかったことを踏まえた上でもそう接して頂けた言葉の向こうを考えた時、なんとありがたいことかとモニタの前でひっそり泣きそうになることが本当に何度もあった。
今回の一連の流れに置ける原因のひとつには非常に大きな人間不信があったのに、それが人の接し方によって救われるとは全く思っていなかったからだ。

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そうして新生FF14二度目の拡張「紅蓮の解放者」が始まる。
実装直後にトラブルでメインクエストが進まない事態となり、マウントでかけずり回ってFATEをひたすら繰り返して改善されるのを待った。このFATE連戦は(メインクエスト進行に対してLvが足りなくなった)Lv50直前で数時間似たような体験をしたきりであり、数段大規模にプレイヤーが移動連戦する様は初めての光景。これはこれで楽しかったと思う。
トラブル解消後に進めたメインクエストも、最初から最後まで野良で進行したものの「みんな最初はわからないから! オッケー!」であったりとか、既に周回突入していながら「ここはこうなんですよ」と丁寧に教えて頂けたりとか、何故かみんな踊ってから戦闘突入するとか、虫の出てこないバトルなのに(中の人の)昆虫耐性を何故か聞かれるとか、総じて楽しく終えられ良い巡り合わせだったと感じる。
きっとその内周回前提になると、こうじゃなくなってしまうかも知れないけれど。

そのような巡り合わせの良さもあり、メインクエストは無事にアーリーアクセス期間中にスタッフロールまで見終えることが出来た。比較的LSや周囲と比べると早い方ではあるようで、これには理由があり先に片付けておかないと知り合いの手伝いを「場数を踏む」訓練の場に出来ないからだ。自分にとって今最も足りないのは、場数の大きな欠如による判断の鈍さとわかっている。周りの人達には(ウチが個人的な事情で手をつけられなかった3年分の)場数と蓄積がある。
野良のノリが良い内に、皆で対策を相談しながらクリアする。そのあと知り合いの手伝いをすることで自分の中に定着させる。後から追いついていって「予習は必要なんだという前提がある」+「予習したけどよくわからない、でも過ぎてしまった」はつらくなる。6/9以前ではこれが一番つらかった。メインクエスト3.xの後半は胃のダメージも無視出来ないレベルで大きくなってしまい。


ここから先はより難しかったり、ひたすら周回することになるダンジョンであったりとかが待ち構えている。これらはLSや知人の進捗を待ち一緒にやりたいと思う。これはFF11におけるアビセア時代のプレイスタイルに非常に近く、あの頃はバトルのトリガーアイテムを平日にソロや少人数で集め、難易度の高くないものは野良でこなし、週末に仲間でトリガーアイテムを持ち寄ってわいわいやっていた。あれが非常に楽しかったのだ。
ゲームが違うので同じようには行かないが、メンタルの保全的な意味でも似たような落とし所には持っていきたい。ウチはMMOの中での新たな出会いを今はそんなに求めていないし、「ここはこうした方がいいんだよ」と言える環境にあるような身内に引っ込むプレイで良い。何より「モニタと自分の間に何か薄く挟まっているような、思考の阻害をするもの」は、今もずっと引きずっているから、難易度の高いものを状況の厳しい野良でやっていたらメンタルが耐えられない。
今の「自分でも出来ること」とそうでないことの境界線はこの辺りだと思っている。


このゲームは明らかに難しいゲームだ。そして経緯というものがあった。けれどここに来ると決めた以上、少しでも長く続くようには心がけたい。
まだまだ道は半ばだ。

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還る理由

SAO O.Sを封切初日に鑑賞。
良くも悪くも思っていた通りの出来だった。驚いたのはスタッフロール後の最後のカットくらいだと思う。
それはさておいて。

作中、ARゲームの台頭によりALOやGGOをはじめとする完全没入型VRゲームのプレイヤー人口が減少していく描写が何度も見られた。そんな描写の中で「またみなさんが還って来ることを」云々と、発言しているシーンがある。
残念ながら、きっとそのようなことにはならないだろう…と思いながら観ていた。


非常に勘違いしやすいが、同じ界隈にいることが同じ意味での好きな集まりではない。その中には「コンテンツの世界観が好き」もあれば「流行ってるものが好き」「人と触れ合えるから好き」「ぶっちゃけただの腰掛け」まで含まれる。単にゲーム好きと言っても格ゲー好きから音ゲー好き、シューターまで様々いるように。
この中で「一時的に離れてもまた戻る」のは、そこに戻らなければならない唯一無二の理由がある場合のみだ。人が目的ならその理由にはなりえない。そこに戻らなければ得られないものとは、そこにしかない特徴…コンテンツ自体の特徴や世界観。そのレベルで好きな人というのは、決して多くはない。現実を見てもソシャゲやアニメの流行り廃りなどは極端で、まるで民族移動のような大規模な変化がしばしば発生する。
世界観レベルでの好きとこの民族移動の様子を、同じ「好き」で括るのは余りにも乱暴というものだ。

人が減ってしまった側に残る者の願い自体はとてもわかる。しかしそれほど人は良心のみで動いたりはしないし、そしてコンテンツに根ざす理由を持たぬ者には、その願いすらも届かない。仕方がないが、流れとはそういうものなのである。
どこまで意図してああいう描写を入れたのかは不明だが、個人的には印象に残ったシーンだった。


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5年後、10年後、自分は何を語っているだろうか。
その時に5年前、10年前のことを「忘れた」で済まさないようではありたいと思う。

2017年

大体1年の展望なんてのはその通りにいかないものだ。

2016年は特にそれのオンパレードだった気もする。自分にとっての2016年とはμ'sファイナルライブがあり、キンプリがまさかの興収を叩き出し4DXを実現させた前半時点で終わっているつもりだった。残りの半年は適当に。
ところが本番はむしろそれ以後だった。映画では「シン・ゴジラ」がやって来て「君の名は。」がやって来た。他にも「この世界の片隅に」や「聲の形」など夏以後は話題作が途切れることはなかったし、更にキンプリが応援上映を広く周知させた結果これら2作含め大型作品でも同種の企画が次々行われるようにもなった。
1年前には想像出来たとしても寝言レベルだったことが今や普通に現実である。世の中の流れはマジ速い。
 
さて、何が起こるかわからないとは言っても個人的な指針みたいなものは一応ある。
一応去年の今頃で意識しつつはあったが本格化していなかったこととして、「メインストリームからもっと外れる」が2017年は進むと思う。これはそういう指針というより指針の結果としてそうなるという見込み。
ここ3年ほど、部分的ではあるがメインストリームの只中でワチャワチャしていた感覚がある。元々流行りに次々乗っていくタイプではない自分にすれば、それはそれで楽しいことも新しい体験も数多くの気付きを得ることも出来たが、それまでやっていたことが犠牲になっていく状況に少しずつフラストレーションが溜まっていたことも事実。
2016年はその解消が途上の状態だったので引き続き努めつつ、(自分にとっては)かなり重大な問題になっている「日本語力の足りてなさ」への取り組みがまずは目下に迫る課題といったところか。

今年は前厄、来年は本厄。大変なことにならないように、でも前には進めていけるように。時間は思っているほど余ってはいない。

それは鏡であり、光だった。

■映画『好きになるその瞬間を。~告白実行委員会~』公式
http://www.honeyworks-movie.jp/2nd/


前作以上に自分の周囲で話題になってる感があり、仕事納め後観に行った。
事前の状態としては前作今作ともに予告は観ていて、前作自体は未鑑賞。
キャラクター・ストーリー等も前作含めて情報は入れていない状態。

「普通に」楽しめた。普通に。
瀬戸口雛を中心とする登場人物の多くは誰かが誰かに恋をしている。しかしそれがうまく噛み合っておらず、悩み、泣き、怒り、時に動揺をする。そういったことを素直に描写しているのもあり、真剣だからこそ不純物なき想いというのがスクリーンからこちらにまっすぐ飛んでくる。
この映画は鏡であり光でもあるのだと思った。故に自分を問い正される。その純粋な光が眩しくて直視出来ないか、光を受け止めてどこか未鑑賞者の方へ向けて反射したいか、それとも光と同化してしまうのか。それは恐らく人それぞれとなるのだろう。

さて、そのように早々に認識した上で個人的な結果は「全くもって何ともありませんでした」であった。繰り返すが、何ともなかった = つまらないではない。なんというか、自分にとってあれは「完結した物語」だったのだ。

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自分にだって、気になる子というのは年相応にいたのだと思う。ただ見た目にも性格的にも暗かったため上手くいくはずはなく、ようやく実を結び初めて「彼女さんがいる」と言える状態になったのは19の頃。その時まず思ったことは今でも自分への約束として心に残り続けているし忘れもしない。「これが最初で、これが最後」。
自分にとって最良とも思える魅力ある存在であり、仮に別れたとして次に行けるほど器用ではないというのもあり…。他にもいくつか理由があって最後だなと覚悟をし、自分なりには色々頑張ったし、考えもした。

最終的に、ハッピーエンドとはならなかった。
今思えばポイントポイントで他に打つべき手があったとは思う。しかし当時の自分の状況を照らし合わせるに選択肢が余りに乏しく、なるべくしてなった手詰まりと言えた。今なら打てる手は変わるだろう。それでも挽回戦を別個行うつもりが全くないのは、先の自分の約束を守る意味でもあり、「結果はうまく行かずとも自分の好きな人はあの人だった」を通したいためだった。
上書き保存も名前をつけて保存もしない、3つめの残し方。

それから10余年ほど経ち、ハッピーエンドにならなかったその後日譚のような出来事が発生。考えを整理するには十分過ぎる時間とそれを経て迎えた出来事により、一連の流れに対する考えが完結。恋愛に関して自分がこの人生で出来ることは、やり終えた。結果はともかく、出来ることをした意味でも満足している。

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15年前だったら寝込むレベルの致命傷を負う映画だったかも知れない。
しかし恋愛に対する考えが自分の中で完全に結論が出てしまっている今となっては「そういう風に悩んだ時期もあった」という共感に留まり、生まれ揺り動かされるはずの感情は既に箱に閉じられ、光や鏡を前にも動じない。とは言えそれは個人的な事情でしかないので、今を生きる子たちには輝きを受け止め、自らも輝いて欲しいと思う。または未練を残しているのなら、もう一度輝こうとする勇気を。
その辺り再認識出来た意味でも、あの映画はやはり鏡であり光であり、行った価値はあったと感じた。