それは鏡であり、光だった。

■映画『好きになるその瞬間を。~告白実行委員会~』公式
http://www.honeyworks-movie.jp/2nd/


前作以上に自分の周囲で話題になってる感があり、仕事納め後観に行った。
事前の状態としては前作今作ともに予告は観ていて、前作自体は未鑑賞。
キャラクター・ストーリー等も前作含めて情報は入れていない状態。

「普通に」楽しめた。普通に。
瀬戸口雛を中心とする登場人物の多くは誰かが誰かに恋をしている。しかしそれがうまく噛み合っておらず、悩み、泣き、怒り、時に動揺をする。そういったことを素直に描写しているのもあり、真剣だからこそ不純物なき想いというのがスクリーンからこちらにまっすぐ飛んでくる。
この映画は鏡であり光でもあるのだと思った。故に自分を問い正される。その純粋な光が眩しくて直視出来ないか、光を受け止めてどこか未鑑賞者の方へ向けて反射したいか、それとも光と同化してしまうのか。それは恐らく人それぞれとなるのだろう。

さて、そのように早々に認識した上で個人的な結果は「全くもって何ともありませんでした」であった。繰り返すが、何ともなかった = つまらないではない。なんというか、自分にとってあれは「完結した物語」だったのだ。

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自分にだって、気になる子というのは年相応にいたのだと思う。ただ見た目にも性格的にも暗かったため上手くいくはずはなく、ようやく実を結び初めて「彼女さんがいる」と言える状態になったのは19の頃。その時まず思ったことは今でも自分への約束として心に残り続けているし忘れもしない。「これが最初で、これが最後」。
自分にとって最良とも思える魅力ある存在であり、仮に別れたとして次に行けるほど器用ではないというのもあり…。他にもいくつか理由があって最後だなと覚悟をし、自分なりには色々頑張ったし、考えもした。

最終的に、ハッピーエンドとはならなかった。
今思えばポイントポイントで他に打つべき手があったとは思う。しかし当時の自分の状況を照らし合わせるに選択肢が余りに乏しく、なるべくしてなった手詰まりと言えた。今なら打てる手は変わるだろう。それでも挽回戦を別個行うつもりが全くないのは、先の自分の約束を守る意味でもあり、「結果はうまく行かずとも自分の好きな人はあの人だった」を通したいためだった。
上書き保存も名前をつけて保存もしない、3つめの残し方。

それから10余年ほど経ち、ハッピーエンドにならなかったその後日譚のような出来事が発生。考えを整理するには十分過ぎる時間とそれを経て迎えた出来事により、一連の流れに対する考えが完結。恋愛に関して自分がこの人生で出来ることは、やり終えた。結果はともかく、出来ることをした意味でも満足している。

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15年前だったら寝込むレベルの致命傷を負う映画だったかも知れない。
しかし恋愛に対する考えが自分の中で完全に結論が出てしまっている今となっては「そういう風に悩んだ時期もあった」という共感に留まり、生まれ揺り動かされるはずの感情は既に箱に閉じられ、光や鏡を前にも動じない。とは言えそれは個人的な事情でしかないので、今を生きる子たちには輝きを受け止め、自らも輝いて欲しいと思う。または未練を残しているのなら、もう一度輝こうとする勇気を。
その辺り再認識出来た意味でも、あの映画はやはり鏡であり光であり、行った価値はあったと感じた。