解き放たれる外見と抑圧

こんなものを目にした。

人は社会との接触で自分が定義づけられる。"かわいくなるワケのない自分という大前提" は、社会に抑圧され続けて "そうならざるを得ない" ことから来る諦めのようなものだ。
しかしVRは人間の感覚(主に視覚)をハックし、つまりそれは感覚の受容から成立する「自分と自分以外の関係」を根底から覆しにかかってしまう。自分を否定的に見るといったような都合の悪い部分もカットしてしまえる。関係性が変わることで、抑圧により生じていた "かわいくなるワケのない自分という大前提" さえも揺らげば、自分の主体性そのものも再構築を迫られる。
だから「かわいくなっていいかも」という潜在的欲求がここで芽を出すことになる。
とても面白い話だ。

元々この大前提は絶対覆らないものではなく、凄く頑張れば何とかならなくもなかった。女装とか、外観と中身の不一致から性転換するなどがそうだ。ただし社会は変わらず存在するし自分という外観も残るので、それと戦わなければいけない。打ち勝つだけのものを備えるには技術や時に覚悟もいる。
それに比べれば格段に「かわいくなっていいかも」の敷居は下がった。本当に。


この「俺が美少女だ!」というのはバーチャルYoutuberを抜きにしても確実に流れが来ていて、最近こんなのも話題になったりしている。

こちらは自分をかわいいと言ってくれる仲間が共にいる社会の実現である。元々2人同時だったのが4人になってしまった。これはヤバい。ちょっとまだ行けてないが是非とも誰かを道連れ…じゃなかった同士を見つけて行ってみたい。

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全員が全員「男に生まれて良かった」と思っているわけではないのだ。
おっさんにしてくれと頼んでもいない。ファッションも男の場合はぶっちゃけ女性の下位でしかない。男っぽい服を女性が着た場合とその逆での違和感を想像すれば一目瞭然だろう。
かわいくはなりたくても男として生まれたので社会が認めない抑圧は、人によっては意識しているかも知れないし無意識下でしかない人もいる(自分の場合は抑圧を意識している側にあったけど)。
別に性差を超えるまで行かなくても、VRの中なら若いとかってのもありだ。

大事なことは「気付き」にある。
感覚の受容から成立していることを忘れて、不変と思ってしまっていて案外そうではないことというのは、結構あったりもするものだ。そこから技術によって「気付き」を得ることは、自分の考えを変える手助けになるかも知れない。
社会に迷惑かけない範囲であればもっと自由でいいのよと技術が導いてくれるなら、それは正しい未来かなと思う。

この傾向、もっと流行って欲しい。