止まるもの、歩むもの。

週末に連絡が入った。
それを受けて10年前の文章を読み返している。
ひとりの友人が亡くなった。
 
知り合ったのは20年程前。インターネットがこれほど普及するより前で、ゲーム仲間はゲーセンのコミュニケーションノートでの交流で見つけていたような頃。その繋がりのド真ん中にいた方で、彼なくして以後20年続く繋がりはなかっただろうとも思える、そんな存在。
とてつもなくポジティブな方だった。その身にふりかかった運命が過酷であったことには違いないのに。
 
 
若者という年齢ではないので、少しずつ、自分に影響を与えた方が他界することが増えて来ている。
死別とは揺るがない現実だ。何をどう感じようが時代は否応なく進み、生きる者もそれに適応しながら前に進む。葬儀やその後の法事などは他界した者のためというより、他界した者を想う自分たちのための執り行いだろう。
だから特別悲しみに暮れることは親族であっても友人であっても自分の場合、そこまで無い。
寂しくはあるが、時の歯車が止まった以上、思い出となっていくのは仕方がないことなのだ。

もちろん思い出となるのは無駄なことではない。何か判断に差し迫られた時、記憶から呼び起こされるのであればその人と出会ったことには十分意味があり、自分の中で糧になっている。今回は糧というレベルではなく、今に繋がる礎そのものに近く、影響は多大なものがあった。
自分が現世に別れを告げる時、誰かの記憶の中に残るだろうか。そんなことを考えた日曜の夜だった。

貴方のおかげで今があります。
おつかれさま。おやすみなさい。ありがとう。